• Information
  • Message
  • Photo
  • Profile
  • Schedule
  • mailto
Mobile
為末大モバイルサイトはこちらをチェック!
バーコード
◆iモード
メニューリスト>スポーツ>各種スポーツ>トップアスリートモバイル>為末大モバイル

◆Yahoo!ケータイ
メニューリスト>スポーツ>サッカー>トップアスリートモバイル>為末大モバイル

◆EZweb
EZトップメニュー>カテゴリで探す>スポーツ>サッカー>トップアスリートモバイル>為末大モバイル
Landscape

message

2009.10.29

ルール

 さて我々が住むこの世界には様々なルールが存在します。ルールと言っても、世界を動かす普遍の法則というような意味ではなくて、私たちがお互いいがみ合わず、協力しながら生きていける世界を秩序立たせる為のものです。法律や掟や、決まり事です。

 ルールを作る程度には、ルールを作る側の人間観が出ます。人はほっておけば『悪い』事をする存在か、それとも『いい』事をする存在か。
 いい事をするのであれば特にルールは必要ありませんが、悪い事をする場合、これらをあらかじめ縛っておく為にルールが作られます。例えば人を傷つけてはいけません。傷つけられたら困るからです。そりゃそうだ確かにそう思うと知って誰もが納得し、そういった行動をとらないのであればほっておいて構わないはずですが、それが通用しない『悪い』人がいる。だったら法で縛ろうかという話です。
 ただ悪いものを縛るという事は、何をもって悪い事か決めねばなりません。

 先の例で言えば、人を傷つける事が『悪い』事である前提に立っています。だから人を傷つけてはならない。前提は人を傷つける事は『悪い』事だからです。


 血液型がO型の人にのみ伝染する、伝染病が蔓延します。致死率100%です。これは大変だ。しかもどうやらO型に行き渡ったあとは違う血液型に空気感染するという事も判明しました。パニックです。危機対策本部が作られ、いろいろと対応しましたが、ワクチンの生成は間に合わないということが判明します。
 首相声明が出されます。

『未曾有の事態を前にし、我々は国民に是非を問う事にしました。O型強制国外退去法案を通すかどうか、それを国民投票で問いたい』

 さてO型を圧倒的多数で上回るA,B,AB型はどう投票したのでしょうか。多数派が勝つのが民主主義です。ナチスドイツも民主主義下で生まれました。

 いい事は誰に取っていい事なのでしょうか?みんな?みんなに取っていい事があれば、話は簡単なのですが、残念ながら全ての人に取って『いい』事はそれほど世の中に存在しません。
 いい事は常にいい事なのでしょうか?常にいい事?戦時下では戦争に反対する事を『悪い』とみなしました。今それは『いい』事とされています。

 オウム真理教の事件の後、その信者の子ども達が地域から学校に入る事を拒否された事がありました。我々のルールでは何人も教育を受ける自由を侵してはならないとあります。しかし、ルールは時として自分の話になったとき、身近な話になったとき、あくまで遠い向こうの誰かが理想郷を想像して作ったものでしかなくなります。


 我々スポーツの世界にもルールは存在します。ドーピング禁止というものから、競技会での事、そして協会が作る選手個人に関しての事まであります。
 さて『いい』スポーツ選手とはどんな選手でしょうか。スポーツマンとはどうあるべきでしょうか。それが大前提にあり、ルールは作られていきます。

 正直な心情を申しまして、強い選手は時に傲慢であります。それは自分だけを信じる強さから生まれてくるものです。人を押しのけ、情を抱かぬ冷酷さが持つ所に強さがあります。
 素晴らしい倫理観を持った選手は時に勝負弱くあります。それは自分を律する所から来る、動物的な判断や、人としての規範に縛られた自由のなさから来るものです。
 人として素晴らしい選手は必ず強い。それが幻想であるのは、スポーツの歴史でも、広くは人類史でも証明されてきました。

 『いい』事の定義を西欧からいただくものだと思っているようでは、日本のアジアのルールの独立はありません。困難ながら、あくまで自分たちで『いい』事を話し合いで探していく。それが本来の民主主義です。

 さて、我々は強くあるべきか、それとも品行方正であるべきか。両方兼ね備えれば最高でありますが、人は弱い存在です。一部の人間以外にはそれは出来ない事です。
 果たして『いい』スポーツマンとは、そして『悪い』スポーツマンとは。スポーツ界に様々なルールが生まれていますが、まずはこれをルールを作る側に定義してもらわずには我々はどうなればいいのかわかりません。勝てばいいのか、正しければいいのか。スポーツに期待されているものはなんなのか。

 ある意味で最大の敵な訳です。何しろルールあってこそのスポーツ。相手や自分には勝てても、ルールだけには勝てないのがスポーツ選手ですから。

 

2009.10.29 | 固定リンク | コメント (13) | トラックバック (0)

Comment

テーマと関係のないコメントは削除させていただきます。

『人として素晴らしい選手は必ず強い』
これは、本当に理想で目標とする選手であると思います(☆o☆)
が、なかなかなれるものではないと私も思います…
競技を行っている限り、結果を追い求めますし、周りからも求められます。
自分を極限まで追い込み、自分(だけ)を信じている状態で傲慢になるなと言うのは難しいのではないかと思います。
しかし、私の競技で私が大好きな選手は、強いしいい人です(//△//)
誰に対しても優しく、
努力を怠らない日本のトップです!!!
そんな選手に私もなりたいと思います。
が、たぶんなりたいと思っててはだめなんじゃないかと思うんです。
強くていい人っていうのは、
努力に努力を重ねた結果、自然とそうなるのではないのでしょうか!?
私も後輩から慕われるような選手になれるよう、
まず目標に向かって努力し続けていきますd(@^∇゚)/

投稿者: まみ (Oct 29, 2009 7:32:48 PM)

そもそも良いとか悪いとかの定義自体誰が決めたのでしょうね。私はあの人は良い人だとか悪い人だとかいう言い方は好きではありません。人間はみんなそれぞれ違った価値観を持っていて考え方も様々ですよね。
そんな人間が良いものとか悪いものを選別するのはどうなんだろうって思う時があります。
物事には必ず良い面があれば悪い面も持っていますよね。両方を考えながら行動するのはとても難しいと思います。私自身自分の行動がいつも正しいのか疑問に思っています。でも最終的に自分が納得した上でのことならそれで良いのだと私は思います。自分の人生は自分だけのものだと思うからです。
スポーツマンも周りの評価なんて気にしないで自分の思う道を進めば良いと思います。自分に正直に向き合うことが大切なのかなと思います。これからも応援しています。

投稿者: ペコ (Oct 29, 2009 7:57:06 PM)

ある方から、為末さんの日記を教えていただきました。

ある強いビジョンを持っている人が、どこの世界でも非常に強い。それはそもそもビジョンというものが、傲慢とは切っても切れない関係にあるからだと思います。

様々な価値観がある中で、無自覚的に「これが一番だ!」「こうなっていくことが素晴らしい」と叫ぶということ、それが強いビジョンを持つ事だと解釈します。

これは裏返せば、ビジョンからはじかれた全てのモノを見捨てる、蔑む、無視することに繋がる。これが「強い」ものと「弱い」ものの、よくある一つの構造なのかなと感じます。


僕自身も、何かを成功させたいと強く願うとき、負けず嫌いなのでそのために全力で頑張りますが、そういう「絶対的な価値観」を持ってしまったことで、失ってきた、見落としてきた愛おしいモノがたくさんあっただろうと、色々想像が膨らんでいます。


どういう生き方が良いのか、どういう方向に進むべきなのか、答えはないと思いますが、できるならば、こういう素晴らしいバランス感覚を持った為末さんのような方が、実績でも素晴らしい結果に恵まれる事を、心から祈っています。(もうすでに素晴らしい活躍を拝見しているのは、かなりの前提です笑)

投稿者: 大宮 (Oct 29, 2009 11:08:59 PM)

tame(*^^)v二ぃさん、おはようございます。
なんとまあ、兄さんの頭の中には、言葉が沢山つまっているらしい。沢山の思いや、言葉が、兄さんの思いを表現する。それを、実践するときはそう遠くない(=^・・^=)たのしみじゃ。
人は同じように疑問に思い、何を基準でか?損得勘定か?善悪の判断か?少なくとも自分の環境での関わりの中では、そうであるべき?そうかもしんない?そのほうがいい?というような思いで、会社の理念や、お客様にとって、仕事のながれで、礼儀で、心配りで、しましょう?になって、いるかも(*^_^*)
先日、上司に激怒されて、店内ルールとはなんぞや?と、仁王立ちで言い返してしまった所でした。。
どんなシーンでも、一人で押し通そうとすると独裁的にみえてしまう、それを腹に隠しながら誘導的に友好的に進めるのも、どうなのか?( ..)φメモメモ
周りの意見を聞きながら時間をかけて作り上げるのか?
知識資格のパートさんは、お客様に正論を盾に断言しているシーンを良く目にします。明らかに不愉快なお顔のお客様やん。(;一_一)しゃ~ない、ちゃちゃおいれよぉ~っと。。。。
そんな、感じ?ですかね。ぉおおぉぉぉお・・・・。
世界大戦中?のタイガー森氏の人生にはそのような葛藤を沢山経験されたのでしょうねえ~~(●^o^●)
一般庶民の私には想像が出来ませんが・・・・・。
では、このへんで。

投稿者: ゆりっぽ (Oct 30, 2009 9:30:59 AM)

こんな私でも、よりよく生きようと思うゆえに、迷ったり、悩んだり、不安になったりします。時に確かなものを手に入れて「よしっ、これで行こう」と目標が定まっても、なにかの拍子に指の間からスルスルとこぼれて嘆息する。こんなことの繰り返しです。O型の例え話は、ドキンとしました。だって、O型なんだもん。(私は国外退去の前に、感染死だと思うから心配ないか。)日頃、イイカッコしいの正論を臆面も無く言いますが、当事者になると途端に、口が重くなる、身勝手になる、自己保身に走る。あぁー耳が痛い。
より強くなりたい、より素晴らしい人間になりたい、そう思う心を持っていることが凄いと思います。


投稿者: ダイ・ハート♪ (Oct 30, 2009 10:06:03 AM)

周知のように、対戦前に相手を罵る格闘技を、他のスポーツに置き換えることは出来ないと思います。
どのスポーツにもその人自身のモチベーションがあがるなら傲慢さをみせたり、品行方正で自分を保てるなら個々それぞれであっていいと思います。
私たちも定まらず考え方、好みでいいか悪いかを決めていると思います。

むしろ意識を変えなければいけないのはみる側、こちら側で、どんな類のスポーツ選手にも敬う気持ちをもてば、選手が無理に色をつけなくても、考えなくても競技に集中でき、ベストパフォーマンスにつながるのではと思います。

投稿者: とん ことり (Oct 30, 2009 11:06:40 AM)

社会生活においては、日本人的な「その相手の意見を組み入れて妥協」も良いと思います。

だが、それに縛られすぎると良く無いことも。

言える勇気。

今に時代は、その方がさっぱりして良いと思います!!

投稿者: ムータン (Oct 30, 2009 11:29:40 AM)

初めてコメントします。
昨日の通勤途中、頭の中で、某柔道金メダリストとインタビュアーのやりとりを勝手に想像して、「柔道家に求められるもの」をディベートしまして(変な癖です)。偶然、今回の為末さんのお題と共通しているな、と思いまして書き込みました。

イ「あなたの柔道は勝つためには何でもする、という色が強く、最後まで攻めたり、美しい一本を狙ってないように言われます。またその言動にも問題があると。そのことについてどう思いますか?」

某「皆、勝負の場では勝つために闘っている。勝負である以上、ポイントでリードしていれば、ブザーが鳴るまでその優位を保とうとするのは当然だ。言動と皆が私に求める勝利とは無関係のはず。」

イ「でも、武道家らしくないとか、正々堂々としていないとか批判されています。」

某「力の差がある格下相手なら美しい一本で勝ちにいくさ。でも、トップレベルでは力の差は殆どない。一瞬の隙が命取りになる。そういう厳しい戦いの場で美しさとか隙を生むかもしれない攻めをしろと?そう言う人は、本当に厳しい戦いをしたことがない人だ。やってみればわかる。」

イ「おっしゃることは分かりますが、一本とか最後まで攻める気迫とか、そういうものも求められていると思うのですが。」

某「だったら、ルールをそうすればいい。いやそうなってる。教育的指導というペナルティがそうだ。そのルール内で戦って勝利しても批判されなければならないのか。」

イ「それはそうですが・・・。ともかく勝つだけでは武道家として名を残せないのではないでしょうか。」

某「では武道家らしいというルールに改定してくれ。試合以外の言動もポイント制にしてくれ。そうすればお望みの選手が勝利していくだろう。」

・・・会社に到着・・・。

一般常識では「暴力」は否定されますが、「ルール」があればスポーツ(または武道)になります。ボクシングでは相手を殴って倒した方が賞賛されます。気が優しくて力いっぱい殴れないボクサーは「弱い」と叩かれます。

為末さんがおっしゃるように、それほどスポーツにおいて「ルール」という存在は大きいのですね。ルールなくしてスポーツは存在しないということを改めて認識しました。

「我々は強くあるべきか、それとも品行方正であるべきか。」
為末さんのこの問いは、突き詰めると
「生物としての「優位性」と人間のみが持つ「理性」と、どちらを重んじるか」
ということになるかと思います。
どこに線を引くかは、各スポーツのルール制定者やその時代の風潮によりさまざまなのでしょう。
確固たる回答のない問いかもしれませんが、それを意識するのとしないのでは、いざ勝負というときに大きな差が出るのかもしれません。
そう言う意味では、為末さんはそこまで思考を突き詰めることができる数少ないアスリートの一人だと感じます。

これからもハイレベルな思考と問題提起を期待しています。

投稿者: しろたま (Oct 30, 2009 12:19:47 PM)

tame(=^・・^=)兄さん②
人は水と食べるものがあれば暮らしていけるが、人が人らしくあるためには、娯楽として、芸術や音楽が必要なんだとすると。人として暮らしていく為にはルールが必要なんだとすると。
それを行使するには道徳なのか、非道なのか・・・・。
二次方程式をルールに、みたてれば、方程式になってない物事をどう料理すればいいのか?
物事を内向的に見てしまうと本筋を見過ごしてしまいがちになるが、視野を広げて外から物事をみると、『なあ~ぁんだ(=^・・^=)』と明確になったりする。
にいさんも今のうちに沢山問いて、ください。実践する為には沢山の疑問と見解と策士が必要なのだから。
ってか、訳わからん事をながなが書いてしまいました。
あしからず。( ..)φメモメモ

投稿者: ゆりっぱ (Oct 31, 2009 12:09:32 AM)

こんにちは☆

こちらは今日もすっごいいいお天気ですよ◎
今朝も走ってきました☆
ほんとサイっコーに気っ持ちいいっ☆
愛ですね☆
(・^-^・)v

えっ、もっちろんですよ^^。
あなたは?
ありがとっ☆チュッ。


投稿者: karen-t☆ (Nov 1, 2009 10:50:49 AM)

 あらためて言うまでもないのでしょうが、為末さんはいつも自分で考え抜き、その考え抜いた結果を文章にされているように思います。ですから、その文章を読むことに、あるいは、読んで書くことに、私たちは、ちょっとした覚悟を迫られるような気がします。
 さて、優れたスポーツマン、あるいは、各分野の天才は、皆人格者なのでしょうか?それは、「そうあって欲しい」という私たちの期待の投影に過ぎないように思います。(私たちの頃、高校野球のエースは、「ハンカチ」ではなく、「マイルドセブン」が当たり前でした、ハイ。)
 その昔、「アマデウス」という映画がありました。この映画では、美しい音楽を数多く作曲したモーツアルトが、実は、女性を追っかけまわす軽薄な男であったように描かれています。私の周囲のクラッシック愛好家は、随分ショックを受けていました。そして、皇帝の覚えのめでたい、映画の語り部役の「サリエリ」は、凡才の宮廷音楽家でした。
 また、歴史上の偉業をなした人は、大半が艶福家です。それが現実というものでしょう。人間理解は、できればもう少し幅広くありたいものだと思います。
 それからスポーツのルール。いつの世も、それは一番の利害関係を持つステークホルダーの意向に沿って変えられてきたように思います。
 キングオブスキーといわれたノルディック複合のルールが、あるいはスキージャンプのルールが日本勢の活躍によって変えられたのも、本家ヨーロッパのスキー族にとって困ったことだったからでしょう。
 では、日本としてどうしたらいいのか。スポーツ選手として、功なり名を遂げた人が、卓球の故荻村さんや、スキーの故猪谷さんのように、スポーツの国際要人として頑張ってくれることでしょうね。(う~ん、頭を使ってしまった)

投稿者: ブースカ (Nov 1, 2009 3:32:10 PM)

こんばんわ

“踏む”と言う文字で勝手に重みを感じてしまい
妄想道場入りし、まとまらないうちに“ルール”・・・

私は自分ルールに悩まされているかもしれないです。

勝手に思い込み
そうあるべきと決めつけているのは自分だけ?!

報われないと感じる時もあるし
崩せば楽になるんだろうかと思う時もありますが
崩す事の出来ない自分ルール。

投稿者: まてぃ (Nov 2, 2009 12:05:48 AM)

柔道、弓道などの、武道は、どうなんでしょうか?
だから、
「侍ハードラー」なのではなかったのではないでしょうか?

投稿者: 4090 (Nov 5, 2009 4:29:52 AM)

Track Back

この記事のトラックバックURL: http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/95993/46611812 こちらのトラックバックのお約束をお読みの上、ご投稿お願い致します。

この記事へのトラックバック一覧です: ルール:

コメントを書く


※メールアドレスは外部には公開されません



個人情報の利用目的