2007.10.04
|
|
|
テーマと関係のないコメントは削除させていただきます。
昼休み中。何回か読み返してみました。
内容が深いので、難しいです。
私も考えてみました。
世の中より善も悪も無くなると、人間は考えたり判断したりする能力が無くなる・・・。何かに心痛めたり、反対に感動する感情も無くなる・・・。そうすると脳が退化して、通常の生活が送れなくなり、死に至る・・・。
そうすると、世の中の不条理なことも私達が生きていくためには必要なことということでしょうか。
う~む。
アホな自分も明日を生きていくためには大切な存在ってことですね。あ~よかった。
とにかく、為末さんには走り続けて欲しいものです。
投稿者: マリ (Oct 4, 2007 1:03:03 PM)
為末さんは、本当に深い哲学を常に考えられているのですね。
とても頭の良い方だと思いました。
だからこそ悩まれる事もあるかもしれません。
私は人間にとって煩悩ははずせないと思っています。
煩悩=悩み・迷いは人間にとって離れられない事で
煩悩=生命そのものに、もともと具わっている働きであると思っています。
それを人間からなくしてしまうと生命活動を消滅させる事になると思います。
その悩み・迷いを断ち切るのではなく、悩みを避け、逃げるのではなくて
煩悩に真っ向から取り組んでいくときに煩悩を縁として悟りの智慧が現れて、煩悩をコントロールしていけると思います。
あらゆる苦悩を自身の成長とシアワセの因にしていく積極的な生き方が私にとって自由自在の生き方だと思っています。
話は違うのかも知れませんが人それぞれの個性があり、その個性をありのままに表現していく行き方が最高に自分を輝かして
生きていけると思っています。
何も気負いする事なく...ありのままに...
ただ人がしていけない事は人を傷つけること
そう思いながら生きています。
投稿者: makoto (Oct 4, 2007 1:03:45 PM)
大さん、こんにちは!世陸閉幕から1ヶ月。大阪も少しは暑さが和らぎ始めました。でもまだまだ半袖の人も多いです。
「壁を押す」。真摯にご自分と向き合って来られた大さんらしいです(^^)
私は大さんの事を不甲斐無いなんて全く思わないけれど、大さんの中の大さんは一生「不甲斐無くない」存在にはならないと思います。そういう意味では「大丈夫」ですよ。
でもね、大さんより10年ちょっと長くこの荒波の世の中をそれなりに真摯に生きている者としては、時々大さんが潰れちゃわないか心配になる事があるんです。
「この人は一体いつ自分をリリースするんだろう」と。
「壁を押す」を拝読して、2001年の世陸決勝で息子のメダルゴールを凝視する事が出来なかったお母さんの気持ちには、私が思っていたよりもっともっといろんなものが込められていたんだなぁ、と思いました。
素敵なご両親の元で真摯に過ごして来られた大さん、自分を大切に、そして今度こそ「自分の為に」納得の行く結果を目指して下さいね。
私は、シンプルに大さんの美しいハードリングが好きです♪
投稿者: とも (Oct 4, 2007 1:14:54 PM)
こんにちは。
為末さんのような人だからこそ、考えるようなことだなぁと思いながら読ませていただきました。
そう言われればそうですね。
哲学的と言うか…。でも何か、哲学的なことはどうも屁理屈っぽく聞こえてきて私は苦手で(^_^;)。赤い花はなぜ赤いのか?みたいな。
自分のおかれている環境や状況には『感謝しながら満足しなければ!』と思うことはありますが、自分自身に満足したら、何だろう…、人として終わっちゃう気もしますし。私、為末さんは『これで俺は俺として完成した!』なんて思う人ではないと思います。だから考える必要ないんじゃないでしょーか(^-^)?
ぜひ、ハードルで文句なしの完成品を、どっか~ん☆と見せつけて下さい。
それより過激な性格って言うのに興味津々。ぜひ武勇伝をお聞かせ下さい。
話は変わりますが、子供の運動会が終わり、今度から体育はハードルだそうです。初めて跳ぶハードル、どんな感想か楽しみです。
投稿者: ちえ (Oct 4, 2007 1:29:11 PM)
憤慨、憤り、嘆き、さまざまあります。
流せる事、流せない事、
加齢とともにそこの境目も変わってきます。
負のエネルギーにもなりうる、、、
無くなると困ると思います(おいらは、、、)
到底なれません、、、出家人。
投稿者: WING (Oct 4, 2007 1:30:18 PM)
う~ん、難しい。
昔ハワイでは「悪い」という概念がなかったそうです。
というような話をどこかで聞いた聞いた気がします。
「悪い状態を良くする」という考えではなく、
「良いものをもっと良くする」という考えなんですって。
ご陽気な気候だからの考え方なんでしょうかね??
投稿者: のん (Oct 4, 2007 2:15:20 PM)
私は、いいことに向かって。情熱をもやしたいのに、疲れるほど怒ってばかり。時代によっても、人によっても、解釈の仕方によっても、善い悪いは、変化しますね。
投稿者: 4090 (Oct 4, 2007 4:34:03 PM)
いや~難しい(><)
正直何が難しいのかすら分かりませんw
為末さんは頭がいいですね~ 羨ましいです^^;
善いこと悪いことって誰が決めるんですかね~
投稿者: まさひろ (Oct 4, 2007 5:51:01 PM)
為末さん、こんにちは。
また奥が深いメッセージですね。
激情的なところがあって良いと思いますよ。
人は、多かれ少なかれ様々な性格の要素は、持ち合わせているのでしょうから…。
煩悩は、欲求とも言い換えることが出来ますが、確かに煩悩がなければ、自己実現も向上心もなくなりますよね。
『正義』に対する『憤り』や『煩悩』は、良い起爆剤として善に転ずると思います。
ただ私は、普遍的、絶対的な善があってほしいです。
正しいか判りませんが、今の地球環境にしても、戦争(宗教戦争)にしても、利己主義(悪)によってもたらされていると思うからです。
明後日、京都に行きます。
なんだか、禅寺に行きたくなりました。
どうぞ、お身体ご自愛下さいませ。
投稿者: hiromi (Oct 4, 2007 6:56:33 PM)
ある本って・・・何の本だッ??
投稿者: さかポ (Oct 4, 2007 7:02:55 PM)
苦難が無くなる、ほうがいいですが。
周りの人からいやだと思われないように,行動しています。私は気分屋です。
善がある限り悪がある。
私は趣味で、走るのですが、周りの人からほどほどしとけと思われてるのではないか、と思って走るのを制限したりします。それは周りの人が不快がる、悪があるかと思うからです
走らないと、善だと思うからです。
ここら辺で、いい加減止めます。
為末さんが調子が良いときもあれば、悪いときもある、と書かれていたことが、人生なのかなーと思って、頑張ります。
投稿者: kame (Oct 4, 2007 7:10:39 PM)
禅問答みたいです。ムツカシイ…。
自分とそうでないモノとの間…そこに劣等感や優越感、色んな感情が沸いてきますが、それを+にもっていくか-にもっていくかは結局自分次第ですね。こうしたい、ああしたいという欲があるから、毎日生きていられるんだと思います。
ちなみに私は理不尽な物事に怒りを感じている時、一番元気で、頭がフル回転しているような気がします。イヤな奴ですね。(笑)
投稿者: inazo_ (Oct 4, 2007 7:43:53 PM)
「自分が欲しいものが何か分かっていない人は、永遠に自分が欲しいものが手に入らない」
のだそうです。
結構応用できそうです。
「自分の目標が何か分かっていない人は、永遠に目標を達成できない」
「自分の敵が何か分かっていない人は、永遠に自分の敵を倒せない」
など…
投稿者: シロ (Oct 4, 2007 8:10:50 PM)
為末さんの言わんとされていること、こんな私でも少し分かる気がしました。そして、改めて強い精神力をもっていらっしゃる方だな、と感じました。
例えば悪一つなく善ばかり溢れている世の中に投げ込まれたら、私は自分の位置や、本来の自分は何なのか分からなくなってしまう気がします。怒りや正義感を抱え前に進む事は、対があることで大きく前へ進める気がします。ただの欲望より、憤りから生まれるエネルギーの方がずっと大きいような気がするのです。
ライバルがいると自分がより一層高まるよう努力し、
反対する者がいればそれを貫こうと一層大声で叫び、
ありたい自分と現実の自分の差に苦しみ、
対があってこそ前へ進める気がします。
為末さんはここまで多くの憤りを感じてこられたのですね。
走り続ける為末さん、本当に立ち止まれるのはご自身の中の憤りが消えた時なのかもしれませんね。
投稿者: nori (Oct 4, 2007 8:29:36 PM)
こんにちは。
難しいテーマですね。
私にはまだまだ沢山欠点があって、不甲斐ない自分でなくなったらなどと考えることは出来ません。
人から聞いたことがありますが、人間は修行するためにこの世に生まれ生かされているらしいですよ。
つまり人間として生かされているということは、まだ得なければいけないことがあるということになります。
また京都に龍安寺に有名な石庭があります。この庭を正面から見ると、庭にある全ての石を数えることはできないそうです。
それはどんなに完璧に見える人間でも、欠点が必ずあって、時々立ち止まって自分を見つめ直し、欠点を探さなければいけないと教えてくれているそうです。
京都に住んでいながら、龍安寺にまだ行ったこともないのにえらそうな内容になってしまいました…
そういえばためすえさんは修行僧みたいなオーラでてますよね(^o^)/
投稿者: £ (Oct 4, 2007 9:10:49 PM)
内容、難しすぎるよ~為末さん。でも、今まで通りの心身に戻られてきたようで、良い事です!
投稿者: ユウコ (Oct 4, 2007 9:31:59 PM)
私は何かと文句の多い性格です。問題意識がとても強いのです。しかし、その問題意識を批判精神にすりかえてはいけないと戒めることを忘れないようにしています。
問題意識は善へ向けなくてはならないと思います。善とは今を大事に生きることだと思います。反対方向に悪が無くても善は存在するのです。
投稿者: 椿 (Oct 4, 2007 9:52:39 PM)
思い込みは深そうですね。
不思議にもスタンス理論の型が私も大さんと同じなんですが、
それと関係があるかどうか分かりませんが、
私も思い込みは深いです。
問題があるから、
人生は深みがあると感じます。
投稿者: driver (Oct 5, 2007 12:14:10 AM)
難しい。。。
私はダイエットをしている
↓
帰り道ケーキ屋がある
↓
夜食にケーキを食べる(ケーキ屋に感謝する)
↓
私は太る。。。
↓
私自身に憤りを感じる
↓
私はダイエットをしている
↓
ダイエットの影響で思考に影響をきたす
↓
ダイエット出来ないのは帰り道のケーキ屋の所為だと思う
アレ?
また意味がちがう???
一生懸命自分に置き換えて考えてみたのですが、さっぱりわかりませんでした。。。
すみません。。。
このアホな娘の矯正に母親は、今日も苦労しております。。。
でもシンプルにアホ娘は幸せです。。。
投稿者: あき (Oct 5, 2007 12:18:26 AM)
もっと突っ走っちゃえばいいのに。って思いますが・・・
やんちゃだった頃に十分経験を重ね、やりきったのかな?
大人になり過ぎちゃうと大抵の感情のコントロールが出来るようになるけれど、できない感情もあると思います。
さぁ、それは何でしょう?。?
いくつもの壁を乗り越えていく貴方の姿にいつも感動させられます。
どうか、これからも様々な為末大をみせてください。
投稿者: Rei (Oct 5, 2007 12:26:20 PM)
哲学的ですね。
性格が似ています・・・・
「光」と「影」
どんな場面でもそういう物がある様に思います。
それを自分が自分の為に有効的にするには、人生の最後まで皆、葛藤しているんじゃないんでしょうか???
「光」と「影」音楽の好きな私はすぐに「浜田省吾」の曲を思い出しました・・・・
投稿者: モンタ (Oct 5, 2007 12:50:28 PM)
対局するものがあるからこそ!!力が沸いてきたり、白と黒とがはっきりしますね。
観音様は、舎利子に、「この世は全て空である」と説いていますが、理解しようとすればするほど、わからなくなることがあります。
投稿者: ひみこ (Oct 5, 2007 1:31:16 PM)
確かにそのとうりだと思います。自分ものめり込むと止められないので分かります。よく、学校(特に小学校低学年)では何かクラスで問題が起こると、すぐに問題を起こした犯人と被害者を見つけようとして、善悪をはっきりしようとさせます。ひどいと、犯人に抵抗した子や、犯人と別な考えをもった子を犯人の前でめちゃくちゃに褒めます。いくら悪い事をしたとしても、自分の行動を真っ向から否定されると精神的なダメ‐ジは大きいと思います。そうなると、犯人とされた子は反省なんてできずにさらにわるい方向に流れてしまうと思います。
人間には必ず悪いところがあるのだと思います。悪いところが無ければ、人間には面白味がない、ただの機械みたいになってしまいます。悪いところがあってこそ人間は輝くことができるのだと思います。でも、悪すぎるのは問題があります。
投稿者: 渡辺巡洋 (Oct 5, 2007 6:42:06 PM)
確かにそのとうりだと思います。自分ものめり込むと止められないので分かります。よく、学校(特に小学校低学年)では何かクラスで問題が起こると、すぐに問題を起こした犯人と被害者を見つけようとして、善悪をはっきりしようとさせます。ひどいと、犯人に抵抗した子や、犯人と別な考えをもった子を犯人の前でめちゃくちゃに褒めます。いくら悪い事をしたとしても、自分の行動を真っ向から否定されると精神的なダメ‐ジは大きいと思います。そうなると、犯人とされた子は反省なんてできずにさらにわるい方向に流れてしまうと思います。
人間には必ず悪いところがあるのだと思います。悪いところが無ければ、人間には面白味がない、ただの機械みたいになってしまいます。悪いところがあってこそ人間は輝くことができるのだと思います。でも、悪すぎるのは問題があります。
投稿者: 渡辺巡洋 (Oct 5, 2007 6:43:30 PM)
去年から立ちはだかる壁が多すぎてどうしていいかわからずにただいらいらしているだけでした。でもそこで色々な勇気をたくさんの人にもらって今も壁を押しています!
この壁の向こうにはどんな世界と自分があるのか・・・楽しみです♪為末さんにいつも勇気をもらっています!壁を越えたら為末選手の走りを生で見たいと思っています!!!
投稿者: せんり (Oct 6, 2007 12:13:10 AM)
私の壁は、きっと戦友です。いつもその人に会って恥ずかしくない自分でいたいと思いますし、その人の存在や、言葉になんども救われましたし、その存在に負けたくないとおもいます。
先日、その戦友がある試験に合格していました。彼は何年もその道を目指していたんです。私たちは、会うことはありませんが、それでも、彼の勇気と実行力に脱帽したし、自分を省みて、すごく、落ち込んだりもしました。けれど、結果、負けないと思いました。彼に負けないように、私も自分の道を進むだけだと思いました。
いろんな難しいことがいろいろとあるんでしょうが、結局私を動かす衝動はいつも、戦友の存在です。原点を知ってくれている戦友の存在が私を突き動かします。
一人では、戦いようがないもんです。未来は果てしないですもんね。
投稿者: 宇宙 (Oct 6, 2007 1:56:45 AM)
何だか、やきもちというのは、存在しやっかいなもので、度がすぎると、犯罪や、よいことをする人間に対し、阻止してきたりするものなのですね。ちょっかい出す人も、
もっといいことにエネルギーと、情熱燃やそうよ。と思うことが多いです。
投稿者: 4090 (Oct 6, 2007 11:16:03 AM)
悪いことに傾ける気持ちは、善いことに傾ける情熱よりも、はるかに簡単で、てっとりばやく、中毒になりやすい性質をもっているとおもいます。身体から考えても、よいことに、つらくても向かっていくことが、どれだけ大変だけど大切か。
投稿者: 4090 (Oct 6, 2007 11:29:02 AM)
為末さん、こんにちは。久々にサイトに来れました。たくさん更新がされていてたくさんのメッセージを拝読しました。今回の内容は・・・とても難しいですね。
その中で私なりに考えてみたのですが、自分自身の成長の為に、人生を生きていくにおいて、二元というもの、何かと何か相対するものはなくてはならない存在だと思います。
善と悪のお話で言うと、これは善、これは悪、と善悪の境界線があります。区別があることで、善いことだったら心がけてできるように、悪いことだったらしないように自制して、そのような思考や感情を持つようになります。それは『わたし』という人格を形成する一つの要素であると思います。経験によって『わたし』自身は少しずつ変化を見せていくものですが、その変化に少なからず影響を与えるものの一つに『あなた』という存在があると思います。
『あなた』にもその人自身の人格があり、それを形成する思考や感情を持ち、その人が決める善悪の境界線があります。ただ『わたし』と『あなた』の境界線は必ずしも一致するものではありません。しかし、両者の境界線に違いがあるからこそ、『あなた』の境界線を知ることは『わたし』にとって一つの大きな気づきになるのではないかと思います。そこでもしかしたら『わたし』は今までの境界線を別の所に引くかもしれませんし、やはり『わたし』はこのままでいこうと自分の考えをよりはっきりできるかもしれないですし、それはどうなるかはわかりません。しかし『わたし』に新しいものの見方を与えてくれるという意味で『あなた』は非常に有り難い存在であると言えます。これは『わたし』に対する『あなた』がいることで感じることができることではないかなと思うのです。
みんなが同じであれば、敢えて違うことをしたり、違うことをしてみようと思ったり、その発想さえ浮かんでこないのではと思います。そう考えると恐い気がします。今の自分に満足し、この先自分自身が成長していけるかがわからないからです。その中で生きていくことが果たしておもしろいのかがわかりません。『わたし』とは別の対象がいる・あることで人生は先が読めずどうなるかわからない楽しみがあり、自分自身も生きていこうとするのではないかなと思います。
投稿者: 茜 (Oct 6, 2007 12:07:40 PM)
悪がなければ善もないとは思えません。確かに対応しあっているものではありますが、その存在が互いに依存しているのではなく、個別の存在であると思うのです。
他の人に何かをあげるとします。その動機がその人に喜んでもらいたいという誠実なものであれば、それは誰の目から見ても善いことといえます。ではその人から何かを奪う、あるいは何か不正な目的でその人に物をあげるという悪が存在しなければそれは善いこととはいえないのでしょうか。もらった人が感じる喜びは、そのような悪が存在するので受けた善行をありがたく思うのでしょうか。絶対にそうではないと思います。
善いことへのありがたみ、感謝の念は悪が存在するので感じるものではありません。
投稿者: 寒がりハードラー (Oct 6, 2007 1:25:54 PM)
憤りや憤りは、まるでブーメランのように、己自身に反ってきます。
そして、とうとう自分までもが許せなくなった時
人は「うつ病」になるのだと、ある著名な精神科医が言っていました。
もう少しリラックスして(笑)
ダメな自分も許してあげたらいかがでしょうか?
投稿者: 黒丸 (Oct 6, 2007 5:49:16 PM)
怒りや憤りは、やがてブーメランのように、己自身に反ってきます。
そして、とうとう自分までもが許せなくなった時
人は「うつ病」になるのだと
ある著名な精神科医が言っていました。
もう少しリラックスして(笑)
ダメな自分も許してあげたらいかがでしょうか?
投稿者: 黒丸 (Oct 6, 2007 5:53:42 PM)
あはは 汗
間違いに気付いたのですが
削除の仕方が分からず、同じカキコミが連続してしまいました。
すみません(-_-;)
私のように、重度のうつ病になると、こんな事も満足にできなくなるのです。
私自身も、ずっと自分が許せませんでした。
為末さんには、闊達でいてほしいと願います…。
投稿者: 黒丸 (Oct 6, 2007 7:12:42 PM)
以前、考えるのが昔からの癖と仰ってた為末さん、
久々にやってきた為末ワ-ルドとして受けとめ、今日は私もそのお話相手としてお供させて頂きます
(※普段、特に好きな人の前ではしません。可愛いい私でありたいですから)
『善と悪』『光と影』『あなたとわたし』
これらの一見分かりやすい二元論の区別の境界をひとつの意識と言う概念にしてまとめた場合、この意識はそれ自体として存在するのではなく必ず対象との関係によって成立する、形成するものだと思います
『私は考える、だから私は存在する』とある哲学者の言葉を思い出しました
この言葉、表面上の意味で解釈した場合、私に対し、考えている対象・主体が存在することによって私が確立されています。意識をもって認識を得ることで互いの存在を示されているのです。
意識のうえでです。
意識することは考えることです。無論、無意識は考えないことです
私は思うのです
果たして無意識では私の存在を示されないのだろうか、と
先の言葉、精神が考える主体の存在を確認するものであって、物質が意識とは区別(独立)して存在しているのです。
精神と物質、この極めて不透明な境界をもつ二元論の中、意識の二元論の境界を考えるのは若干苦しいことでしょうね。精神と物質の二元論自体がはっきりしないのですから、到底頭では理解できないことなんでしょうね。
私はあなたは筋がね入りのアスリ―トだなぁと、頭にバカをつけたいほどの(スミマセン。ホメ言葉です)究極のアスリ-ト、そのように感じます。
人間のひとつの行動は他人との相互作用の結果として為されるものであって、それだけでは成立するものではないのです。
ブル-・スリ-の、『Don't think! Feel!』
考えるな、感じろ!のその言葉、
精神と物質がひとつになり、己が己としてもっとも信頼できる所から対象となりうる主体の存在がそして己の存在がそこではじめて気付かされるんでしょうか。
“感情を何かにぶつけるべく走り続けてきた”“何かに憤り、ないしは自分の正義を貫かんとして日々走り続けている”
きっと、この行動自体が精神と物質や先ほどの二元論の不透明な境界への答えになっているんでしょうね。
『私は感じる。だから私は走る(行動する)。』
それがあなたの存在なのですね。
感じるままに、走って下さい☆
“壁を押す”この壁、この現実、きっとあなたの原動力となっていることでしょうね。
Feel☆
投稿者: karen-t☆ (Oct 7, 2007 12:19:00 AM)
ブログ主は結局自分の限界を知らないんだと思うな。
悪いけど、思想家ぶって文章を書いてもろくなもんじゃない。
訳わかんない文章書く暇があるんなら、
麻生太郎みたいに漫画読んでるほうがよっぽどまし。
競技者としては中学時代から超一流なんだろうけど、
研究者としてはど素人なんだろうし、
解剖学者としてもど素人なんだろうし、
投資家としてもど素人なんだろうし、
もちろん指導者、思想家としてもど素人。
人間って20歳前後の若いうちは、
「自分は何でもできる」
と思うのはありだし、そうでないと勝負事には勝てないんだけど、
30前後でそれでは人間として稚拙すぎる。
投稿者: keita (Oct 7, 2007 12:53:07 AM)
すみません、またコメントさせて頂きたくて夜分遅くに失礼致します。
『自我』というものが強すぎると、自分以外の考えを排除したり、自分の見方以外の見方をしようとしなくなりますよね。
ところが、仏教で言うところの『無我の境地』になると、自己を離れて自分、あるいは他人を等しく見ることができるそうです。
(善意なる第三者の目と言うそうです。)
善悪を二元に分けることは、これ自体は大切な事だと思いますし、生きていく上で無視できないと思います。
ですが、『無我の境地』で見たなら、善悪を分けるだけでなく、『善悪不二』と言って、「善悪というのは、ほんとうは別々のものではなくて一つのもの」だと判ってくるそうです。
具体的に言うと、『自我意識』の目で見たら、「善人、悪人」とはっきり分けられますが、『無我の意識』で見れば「悪人と言われる人の中にも善なるものはあるし、以前は善人だったかもしれない。善人と言われてる人でも、偽善や悪の部分は皆持っていて、悪人になっていくこともありうる。」と言うことです。
二元論の境目のはっきりしない部分は、もしかしたら人知を超えた目で見た中にあるのかもしれないと、この説を読んで私なりに解釈いたしました。
為末さんは、客観的自己分析は長けてらっしゃると思います。
私は、年齢で人は判断出来ないと思いますので、その点は本当に素晴らしいと思います。
ですが…、たまには『感じる』事で、頭の中の張り詰めた弦を緩めて下さいね。
残り少ない休暇…楽しんで、ゆっくりお休み下さいね。
投稿者: hiromi (Oct 7, 2007 2:30:23 AM)
そんなに完璧な人っているの?つくろうとしているの?本来みんなそれぞれ違うから、地球がおもしろいわけで、素晴らしいわけで、なのに、みんな同じ方向ばかり向くのもそれはそれで、弊害があると思うのです。でも、悪いことが多いもの物は悪い。日々よい方向に向かって、生きて、成長していければいいなと思う。
投稿者: 4090 (Oct 7, 2007 12:03:26 PM)
昔は哲学にもはまりましたが、難しく考えるのは、辞めました。頭がいいですね。為末さん。家内が、お寺に聞いてみなさいよ。といっています。俺の頭では、無理のようです。<笑>
投稿者: 渡辺徹也 (Oct 7, 2007 5:25:27 PM)
前へ!!
投稿者: IVY (Oct 7, 2007 9:01:37 PM)
1年の中で僅かな余暇の時間を、1年分の思いを込めて、見たり聞いたり、そして考えたりしていますね。
私も、今までの自分の人生を振り返ると、負のパワーが尋常ではない力をみなぎらせてくれたと思います。
全てがうまく運んでいて幸せな時って、現状維持...ぬるま湯の生活パターンでした。何せ現状がとてもいいわけですから、それ以上踏み出そうと思わないんです。
でも、不幸に押し潰された時って、何か行動して打開しないと精神がおかしくなりそうだから、とんでもない事が出来てしまうんですよね。この時の行動力と言ったら、後になって「我ながら良くやったな」と感心するほどで。
そう考えると、大さんのように世界レベルの瞬発力を生む為には、相当な壁が必要かもしれません。奮起の材料が”不幸”って健康的な考え方じゃないかもしれないけど、そういう生き方しか出来ない人もいるんですよね。でもそれで自分が向上出来るなら、この際きっかけは何でもいいんですよ。結局、結果ですから。
だから私は、不幸や困難さえも、愛してやろうと思っています。次はどんな力が出せるか、見たい。
過激な大さん...何だかものすごく魅かれます。北京までは過激で行きますか!
投稿者: nan (Oct 7, 2007 11:48:16 PM)
難しいですι
いっぱぃ読んで、いっぱぃ考えましたがょくわかりませんでした…。
でも、そぅいったコトも全部ひっくるめて、為末選手が前に進む為のパワーになってるから良し!!ってコトですよね☆
投稿者: かぁ (Oct 8, 2007 12:04:39 AM)
ブログ主はもう引退した方がいい。
アスリートが哲学的思想に陥るのは力が衰えたときと相場が決まっている。
少しは考えて見ろよ為末君。
君が陸上をメジャーにすることに尽力できたのか?
君は自分自身の競技人生の集大成は大阪世界陸上だといっていたのではないのか?
池田久美子や沢野大地、末続慎吾、醍醐らに余計な重圧を与えて自滅させたのは為末君、君の余計な活動ではなかったのか?
君は陸上競技選手としてはルックスがいい。
だから女性ファンが多いのには納得ができる。
だが女性ファンと言うのは客観性に欠ける馬鹿の集団なのだ。
君にその自覚があるか?
女性ファンと言うのは所詮日和見の鶏なんだよ。
いざと言うときには何の助けにもならない。
君の大好きな株と同じだ。
このブログで君にマンセー投稿を続ける馬鹿女性ファンは、
君の足を引っ張っていると同時に、
君の所属している陸上競技のアスリートの足を引っ張っている。
君は大阪世界陸上の大敗の永久戦犯者だ。
潔く陸上競技界から退場してもらいたい。
これは長らく陸上競技を愛してきたものの切なる願いだ。
君のようなよこしまな考えを有するアスリートは、
日本の陸上競技会にとって百害あって一利なし。
さっさと芸能界にデビューして、
己の矮小さを自覚するべきだね。
君のキャリアなど芸能界では通用しないから。
投稿者: keita (Oct 8, 2007 7:12:52 AM)
上のコメントにあるように、慢性投稿するものとして、言っておく。
重圧かけたのは、野次とばしている、人達です。報道にも問題ありで、そこに切り込んだのが、為末さんだと思いますよ。結果はどうであれ。意味のあることだと思います。
それから、本番の、極限状態で、出てくるのが、素の自分、普段の自分、だから、アスリートは、精神の鍛錬が必要なのは、そのためです。人間の成長が、そのひと自身をつくりだし、行動をおこすのです。それをつぶしてきた、足をひっぱってきた、観客に、問題ありです。野次とばすそこのあなた、あなたは、何ができますか?そこまで一人のひととして、何か成し遂げてきたひとですか?
投稿者: 4090 (Oct 8, 2007 9:19:50 AM)
二元論、と聞くと私にはにごった感情が出てきます。
9・11に始まった対テロ戦争や、郵政民営化の是非を問うた小泉改革などは二元論の話ではないかと認識しています。
これらは私にとっていい印象の出来事ではありません。なぜならやはり、暗い『悪』『影』の部分も明確に表れているからだと思います。
本日のメッセージを拝見しまして、禅について改めて興味を持ちました。境目がはっきりしないところ、とはなんとも日本人的な感覚であるなという気がしました。
日本のあるお坊さんが海外に行ったとき、向こうの空港にいたら外国人の方からよく禅について質問をされた、という話をきいたことがあります。禅について、日本人として最低限応えられるだけの知識は持ちたいと思います。
投稿者: nissy (Oct 8, 2007 1:33:20 PM)
私にも、陸上競技を、つまらないものと、(私はそうは、思いませんが)周囲の人に知らせた責任もありますが、奥が深いものなので、わかりやすく、楽しさを、みんなに知らせたのが、為末さんたちで、周りで、足引っ張ったり、してしていなっければ、こんなことには、ならなかったはずです。
投稿者: 4090 (Oct 8, 2007 7:31:59 PM)
こんばんは☆彡
今日予備校の授業を終えて、駅に向かって歩いているときに、ふと夜空を見上げてたら『1年前まではまだこの時間は走ってたな…』と切ない気持ちになり、無性に走りたくなりました。
嫌な事があると、いつも夢中でハードルの練習をしてました。私にとって現実逃避の手段がハードルだったような気がします(>_<)危険な感じですよね…笑゛
為末さんにとってハードルは生きる手段ですか??
何はともあれ、ケガをせずに是非為末さんが思い描いた冬期トレーニングができますように祈っています!!
投稿者: あっぴ (Oct 8, 2007 9:08:26 PM)
永久戦犯者 とは A級戦犯者 と言いたかったのかな?
投稿者: rock-man (Oct 8, 2007 10:18:45 PM)
為末氏は年寄り臭くなってきましたね。 先人の知恵だの哲学やら
宗教やら、迷っておられるのですか? 言葉は方程式ではありません。
本人の主観で都合のいいように解釈、引用できるからです。
例というものなんかは多くはこじつけです。 概念や思いを言語化する
作業は大事ですが人間が作った言葉に人間が縛られるのは危険です。
あと気になるのは為末氏が二元論を持っておられること。
キリスト教的思想は単純で傲慢病に陥りやすくなります。 私は
二元論こそが今日の混沌をもたらす元凶と考えています。
A級戦犯、慰安婦問題、教科書、沖縄等でこの二元論を持って悲惨な
混乱が生じています。 善でも悪でも光でも影でもない複雑な部分が
万物にはあると思います。 日本のような八百万の神の国では価値観が
多様化しすぎている上にIT革命による情報の錯乱によりなかなか
これだ!という信念は生まれにくいですね。 そういう意味では鞭で
叩かれながら走っているほうが時には幸せなのかもしれません。
自由な信仰や信条が与えられのは時には重圧かも。 そういう意味では
女子の長距離選手は幸せですね。監督を信じきって心も体も捧げて
いますから一途な人が多いです。 ファンという存在に女性が多いこと
などからしても男女では脳の構造が違うのですかね・・・
投稿者: 北京五輪はフランスと一緒にボイコット。 (Oct 9, 2007 6:57:16 AM)
二元論は、習ったことないですが、私は思うんです。物事に、いい面と悪い面、光と影といえばいいのか、二面性がありますよね。そこで、悪い所を自分で自覚して、よい面を伸ばしていく。それが、理想ではないでしょうか?トレーニングも、監督を信じきるのも、偏りすぎ、やりすぎは、怪我のもとというように。ちがいますか?みんな完璧な存在なんて、ないんです。いかに自覚しよい方向へもっていくか。ではないでしょうか?
投稿者: 4090 (Oct 10, 2007 10:01:42 PM)
憤りや自分の正義ではなく、
感謝、を動力源とすることは、どうでしょうか?
今、いのちがあって、こうして走れるということへの感謝、
打ち込めることを見出せたことへの感謝、
自分を応援してくれるひとたちへの感謝、
そして、
自分の走りをみて、勇気を沸き起こしたり、
元気にしてあげられたり、感動を与えたりすることが
できることへの感謝、
そういうものを推進力として、走る、
ということでは、どうでしょうか?
善と悪、正しいことと、そうでないこと、
はときに、拠って経つ場所や、時代や
いろんなことで180度変わることもありますが、
感謝の気持ちは、いつも抱くことができて、
あらゆるもの、あらゆるひとに向けられる
無限大の力になると、思うのです。
エラそうに聞こえたらスミマセン!!
今ここに、こうしてあること、そうさせてくれた
すべてのものへの感謝を力にして
走る、っていうのはどうかな。。。って
為末さんの文章を読んで感じました。
エラそうに聞こえたら、ごめんなさい。
投稿者: tomo (Oct 15, 2007 11:22:24 PM)
|
|
この記事のトラックバックURL: http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/95993/16654716 こちらのトラックバックのお約束をお読みの上、ご投稿お願い致します。
この記事へのトラックバック一覧です: 壁を押す:

